O.F.ボルノーは、「生命は四季の移り変わりの中で若返る。冬には凍結していた命が春には新たに目覚めるのであり、これに関わる人間をも新たに生きる勇気で満たす」と住まい(生活)の傍らにある緑の大切さを説きました。
アメリカのR.S.アルリッチは、胆嚢摘出手術をした患者を、偏差を考慮した上で、窓からレンガ塀しか見えない患者「レンガの患者」と落葉樹の見える患者「緑の患者」に分け、そのカルテを調査しました。その結果、緑の患者はレンガの患者より鎮痛剤の要求度が低く、退院までの日数は緑の患者がレンガの患者より1日少なく、この調査結果は医学会に大きな衝撃をもたらしたと言われています。
植物は光合成により二酸化炭素を吸収し、酸素を作り出しますが、それ以外にも我々の心を癒し、時には外科治療からの回復さえ手伝ってくれる大切なパートナーなのです。
代替の効かない大切な緑ですが、現在、地球上においては、2秒間に1haの森林が消滅している、とも言われています。
我々の生活の中心である都市においては、既に緑がコンクリートに食い尽くされ(Gray over the green...)開発に開発を重ねられた結果、緑ばかりでなく土地の様相さえ忘れ去られようとしています。
都心から離れた郊外でさえ、身近な緑は加速度的に消滅しています。私たちはまちとくらしの傍に、緑を取り戻す必要があります。
まちに緑を取り戻す方法の一つに屋上緑化があります。1990年代以降様々なキーワードと共にブームが訪れました。「環境」「自治体の助成金」「CO2削減」...。
しかし、いずれのブームにおいても、植物に何を託し、そのために何が必要なのかがはっきりしないまま、新技術や新規市場への期待が先走りし、社会に認知はされたものの、環境を変える手段とは成り得ていないのは、大変残念なことです。
ブームの過程では、様々な手段を用いた緑化技術が開発されました。
その幾つかは限られた植物の特定の性質に頼るものであり、コンピュータを駆使した潅水システムによる省管理化、薄い植栽基盤での軽量化、更には垂直面の緑化など、トレンド(軽量→薄層→植物の機能性→断熱/CO2削減)への対応や省コストをそのメリットとしています。
自動潅水システムはランニングコストを短縮させるために、そしてメンテナンスが不要(本当に?)な植物も同様に経済的な要求に応えてくれます。このような特徴は、クライアントにも、建築家にも分かりやすくて、魅力的です。
しかし別の面から見れば、植物の特定の機能性だけを求めたり、単一の植物を使用する事は、多様性と地域性を無視するもの、とは言えないでしょうか。
自動潅水は個別の条件をあてはめてみると、決して省コストとは言い切れない場合も多く、変化が予想される水資源に関わる環境の中で、負担を増すこともあるでしょう。
様々な技術が活用され、技術が進歩する事はすばらしい事です。しかし一つ方法を間違えば、環境をよくするために設えた都市緑化が、将来大きな負担となるばかりでなく、環境破壊の要因になるのです。残念ながらその可能性は決して低くありません。
特定の植物が必要なのか、自動潅水システムは必ず必要なのか、また、建築意匠との適合を慮るあまり、植物にとって過酷な状況を作り出していないか、十分な検証を重ねることが大切です。
そして、改めて確認しなければならないことは、屋上緑化は「植物」という生き物の力を借りた手段である、ということです。屋上緑化はレンガやタイルといった建材のようにある程度経年に伴う変化が把握しやすい資材と異なり、生育とそれに伴う変化が起きます。人間はその生育や変化の様子を見ながら、最適な管理をする必要があります。作って、あとはコンピュータに管理を任せてしまったら、そこに豊かな緑は生まれません。人の心も暮らしも決して豊かにはならないでしょう。
まちと暮らしに質の高い緑の環境を復元させ、長期間にわたって良好な社会資産となりうる都市緑化を計画するためには、いくつかの原則があると言えます。
既に幾つかの屋上緑化が、長年に亘って良好な環境を維持し、健全な生育を続けているばかりでなく、局地的気候を出現させ地域環境の改善に貢献している事例も生まれています。そして驚くべき事は、これらの屋上緑化は従前の予想を大きく下回るコストで運営されている、ということです。
このような屋上緑化には、まちと暮らしの環境を変える可能性があります。ほんの少しの注意と誠意で計画され、管理される質のよい緑は、まちと暮らしの傍らに集積されていくことは、直接的、間接的に環境をよくするきっかけとなるのです。
そのような試みを継続しながら、緑と植物を楽しむ心がまちと暮らしの風景を少しずつでも変えていくこと( Green over the gray... )が、我々の願いです。
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