前号よりの続き...
上京して造園会社に就職し、その研修で登った東京タワーからの風景が、その後の私の人生を大きく変えたことは前回お話しました。
それから緑の仕事一筋でやってきたわけですが、最初は見習いで、冬は温室のボイラー炊き、春は調布深大寺農場での寒施肥、さらに貸し植木の配達やお使いに走り回っていました。
昭和30年代のこと、車など与えられるはずもなく、自転車で東京の街を駆け回りました。
そんな風に見習時代を過ごしていましたが、私たちの世代は、戦争で前の世代の方が多く亡くなっているので、先輩が少なく、働き始めて数年のうちには営業部員として、会社の中心で働くようになっていました。
主なお客様は百貨店でした。高度成長期の百貨店は力強く、華やかで、消費の中心でした。
その百貨店を相手にする仕事も当然のことながら忙しく、寝る間もなく働いていたと記憶しています。
そして、その百貨店で与えられた仕事が東京タワーで誓った夢の実現へと向けた最初の一歩となります。
当時、その百貨店の宣伝部の責任者が、「百貨店にこれから大切なのは、花と緑だ」というテーマを掲げられ、これに伴って室内に緑や花を積極的に取り込んでいました。
花の色が変化するという理由で忌み嫌われていたアジサイや、「下がる」ことから商売には縁起が悪いと言われていたつる性植物を使用するなど、当時としては画期的なセンスで装飾をされていました。
更に、建築家の村野藤吾さんの、「百貨店は買い物をしてもしなくても疲れる場所だ。買い物客がゆっくりと休める芝生の庭園を屋上に作ったらいい」というアドバイスがあり、屋上庭園を造ることになり、若い私がその仕事の企画を任されたのです。
とはいっても、当時は屋上庭園という言葉もなく、また技術も未開発でしたので、屋上に庭園など造ったら防水や建築物を傷めると、建設会社も防水会社も大反対でした。もし屋上庭園をつくるのなら、防水が壊されても保証をしない、そんな時代のことです。
当時は(そして今も)屋上に木を植えると、根が防水を傷めて漏水するというのが常識です。
私は屋上庭園の実現に向けて様々な方法を検討し、日々解決策を探りました。
新しい技術のヒントは、思いもかけないところにあったのです。
そして、この技術を発見したことが、私を更に植物の道に夢中にさせ、その後の仕事や人生を有意義で、豊かなものにしてくれました。
(続く)
最近のコメント